1997年、高知から奈良へ

1996年、修行中にトラブルに遭って途中で断念した私は、高知県で塾の先生をしながら、高知県立武道館の剣道場で毎週日曜日に空手の指導をしていました。120kgや130kgのパワフルな方をふくむ8名の一般の方達と共に空手道MAC高知同好会として活動していました。そんな私に、田中眞海老師がアウシュビッツの本「夜と霧」を送ってくださり、人は誰もが善にも悪にもなれることを考えていました。1997年、どうしても奈良に帰らなければならなくなり、高知の仲間と辛い別れをしました。帰ってきてからは天理で郵便配達をしました。夜に塾を始めようと思い、べニヤ板に「寺小屋塾」と書いて立てかけたところに、お母さんと一緒に入塾の相談に来たのが玉崎秀樹くんでした。最初は勉強を教えるつもりが、私が空手をしていたことを話すと空手を習いたいということになり、2人で稽古を始めました。屋根が落ち床が抜けているプレハブの物置小屋の片隅で2人で稽古するうちに、1人2人と集まりだし、お寺の不動堂に場所を移しました。不動堂は狭いし周りの窓ガラスにぶつかると割れそうなので、8人になった時に三輪小学校の体育館に移動しました。

1997年7月20日に空手道MAC奈良支部発足

1997年7月20日、一緒に稽古する仲間が増えたので、平等寺研修道場内に場所を移し常設道場となりました。渡辺代表と石島副代表初め、支部長先生方、先輩後輩達が遠方からかけつけてくださり、空手道MAC奈良道場として正式に発足しました。

1999年、初のチャンピオン

1997年10月より私は断念した修行を再開しました。場所は福井県の宝慶寺で、そこで田中眞海堂長さん初め山内の皆様と一緒に坐禅を中心とした、ありがたい修行をつとめさせていただきました。堂長さんのはからいで、2年前にトラブルになった相手とも二泊三日で三千仏礼拝行を厳修し共に許しあいました。修行に行っている間、私の父、丸子孝法が道場での指導の代理をしてくれました。その間の1998年5月5日に伊勢和彦さんが入門。すでに半端なく強かった伊勢さんは、修行から帰ってきた私のスパーリングパートナーとなってくれました。伊勢さんは1999年10月24日に開催された第7回ルーキーチャレンジの一般初級重量級に出場し、39歳にして優勝!空手道MAC奈良支部初のチャンピオンになりました。さらに同大会で、1999年6月16日に入門した山路要さんが初級中量級で、空手歴僅か4ヵ月で準優勝しました。この二人がいたからこそ、私は再び選手として復帰できました。そして、この二人を目標に、たくさんの人が道場の門を叩きました。

1999年、初の入賞者

1999年9月12日に開催されました第1回ジュニアジャパンカップの小学6年生初級の部に出場した古家慶大くんが準優勝しました。サッカーで鍛えた足腰と突きの強さを武器に空手道MAC奈良支部初の入賞者となりました。玉崎くんと古家くんは、いいライバル関係で、二人が初期の少年部をひっぱっていました。

2001年第1回カラテチャレンジ

2001年に空手道MAC主催の初の上級大会、カラテチャレンジが開催されました。私は重量級で出場し、伊勢さん山路さんはじめ、一般部の惜しみない協力のお陰様で準優勝しました。しかし、準決勝の現イラン支部長のラフマニ・アフマドさんとの激闘で右膝靱帯付着部を剥離骨折したため、7ヵ月間膝が曲がらなくなり、どこへ行くのにも折りたたみの椅子を持ち運んでいました。なんとか膝も曲がるようになり2003年の白蓮会館全日本大会で復活しましたが準々決勝でブラッド・ウィードマン選手と戦い、上段膝蹴りをくらって意識を失いました。何とか立ち上がって気迫だけで向かっていきましたが為す術もなく一本負け。その後2009年まで毎年どこかしら骨折しており、いろんな方々にご迷惑をかけてきました。空手以外の方面でも多忙を極めるようになり骨折もできなくなりました。そんなことで、自らの試合よりも、後進の育成と武道としての空手の追求に専念することにしました。

2005年、愛知万博へ

今まで様々な場所で合宿を行ってきました。2005年5月1日には愛知県小牧支部と合同稽古を行いました。小牧支部の稽古に参加させていただいた後、全員とスパーリングをしました。その後、近所のスーパー銭湯に行き、戻ってきてからは、昔のビデオを見ながら高瀬元勝先生、石田一龍先生はじめ小牧支部の方々と夜中まで空手談義に花を咲かせました。次の日は、愛知万博へ行きましたが、昨晩遅くまで起きていたため班長さん達が椅子に座るたびに爆睡。アトラクションで長蛇の列に並んで、いざ椅子に座れば眠るという状態で最後まで夢の中でした。元気な子ども達に振り回されて、帰りは全員バスの中で眠っていました。

冬は大峰山で、夏は長島愛生園で合宿

前は合宿といえば冬は大峰山で、夏は長島愛生園と決まっていた。冬は世界遺産・大峰山の麓、洞川温泉郷の「あたらしや旅館」に宿泊し、極寒の体育館で寒稽古。汗を拭いたタオルがカチコチに凍る。時には雪だるまを作ったりも。
 洞川温泉は、修験道の聖地・山上ヶ岳(大峰山)の山ふところに抱かれた温泉街です。 山上川畔より湧出する摂氏26度の無色透明のアルカリ性温泉で、神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性消化器痛・冷え性などに治癒効果があり、古くから大峯山の登山者たちの疲労回復に利用されてきました。洞川温泉の宿屋の中で、一番最初に温泉を引いたのが、「あたらしや旅館」

夏は国立療養所「長島愛生園」へ。ハンセン病回復者の方々が見守る中、稽古に励んだ。ハンセン病で療養所に連れてこられた方達は、親や兄弟と一緒に暮らすことができず、実名を名乗ることができず、結婚しても子どもを生むことが許されず、一生療養所から出て暮らすことができず、死んでも故郷の墓に埋葬してもらえない、こんな生活を強いられてきました。同じ人間なのに、長い間多くの偏見と差別に苦しんできました。空手の稽古は突き合い蹴り合う中で痛さを知り、相手の痛みも分かるようになります。痛みが分かる人は、他人にやさしくなります。偏見・差別を受けた長島愛生園入所者の方達は心を痛めた経験があるから、とてもやさしいです。そして、後遺症に苦しみながらも、残りの人生を悔いのないように生きようと、一生懸命に今を生きていらっしゃいます。

最近は近場で稽古中心の合宿が行われています。

2005年、上級大会優勝

2005年、新人戦を卒業し上級大会で活躍する山路要に追いつこうとする高校生達が、一般部の大会で活躍しました。大西盛久は2003年に、的場彰太は2004年に新人戦で入賞しました。さらに的場彰太は2005年に第10回極真会館大阪城杯夏の陣一般軽量級の部で優勝しました。また、同年3月6日に横浜国際プールアリーナで開催されたジャパンカップは参加選手1,000人を超えるマンモス大会となりました。高校生70㎏以下の部に出場した内倉拓也が持てる力を出し切って優勝しました。同大会にて、中学生重量級の部に出場した前田篤秀も第3位に入賞しました。この頃は古家慶大、内倉拓也、前田篤秀、的場和也がジュニアの全日本選手として活躍しました。

2006年、山路要が全日本ベスト8に

2006年には奈良県内に道場も増えました。ここに写っているメンバーに各道場の指導員がいます。大会を目指して厳しい稽古が続きましたが、うだるような夏の暑い日も、凍るような真冬にも必ず稽古に来たのが山路要さんでした。メキメキと力をつけ、空手道MACの全日本選手として、数々のトップ選手達と好勝負をしました。そして、極真会館大阪城杯無差別級での優勝で勢いをつけ、11月に大阪府立体育館で開催された白蓮会館全日本大会でも重量級で準々決勝まで勝ち上がりました。そこで優勝者に惜しくも敗れましたがベスト8入賞に!その山路さんの背中を追いかけたのが、的場彰太くんでした。山路さんのスパーリングパートナーとして力をつけた的場くんも全日本大会で活躍するようになりました。

2008年、世界大会へ

2007年、極真会館世界大会選抜大会となった大阪城杯にMAC奈良から3名が出場し気合で大奮闘!山路要が重量級決勝戦で白蓮会館重量級世界チャンピオンの北島選手と打ち合うも一歩及ばず準優勝、丸子慶仁は白蓮会館中量級世界チャンピオンの平木選手に敗れ中量級3位、的場彰太は強豪選手達に打ち勝ち軽量級で優勝! 2008年の極真世界大会出場権を獲得した。3人とも厳しい闘いでしたが、大健闘した!


2008年1月19・20日、MAC初の極真世界大会に、的場彰太が軽量級で出場した。注目の試合は初戦から海外選手と日本選手団が豪快な技と力、激しい意地の激突となった。その中で、初日的場は1回戦シードで2回戦からスペイン軽量級チャンピオンと対戦!的場は開始直後から得意の連打攻撃で攻め、5対0の判定勝ち!2日目は3階級各クラスのベスト16に勝ち上がった世界強豪選手達が激突した。的場はこの3回戦、白蓮の軽量級覇者、北濱選手と対戦した。試合開始から的場は相手選手の膝蹴りを捌きながら回り込み、小刻みな下段廻し蹴りで応戦したが、後半からやや後退ぎみで試合終了、0対4となり3回戦で敗れた。


同年6月8日、白連会館主催による初の全関東大会が「第2回世界大会代表選抜戦」として代々木第2体育館で盛大に開催された!一般有段の部は、軽・中・重量級の決勝進出者が世界大会日本代表に決定する為、関東はもとより全国から強豪が参戦した。MACからは、軽量級に田中正明(埼玉中央支部)、重量級に山路要(奈良支部)が出場し、強豪選手を敗り準決勝へ進出した。2人とも次に勝てば世界大会出場のキップが手に入る所まで行くが、 田中は重政選手(極眞會)に、山路は南選手(白蓮会館)に敗れ惜しくも第3位入賞に終わる。しかし、南選手が出場を辞退したので、山路が世界大会に出場することになった。


同年11月9日、白蓮会館主催第2回世界大会に山路要が重量級で出場した。開会式で山路は日本選手団の一番前で国旗を持って入場。応援団にも熱が入った。注目の試合は、初戦はインドの選手が怪我で欠場の為、不戦勝。2回戦で4年前の世界大会第3位のジャドリード選手と対戦。開始直後から切れのある蹴り技を繰り出すジャド選手に、山 路は突きと膝蹴りで応戦。中盤には互いにカカト落としを繰り出す好勝負で本戦は引き分け。延長戦も全力で打ち合うも、ジャド選手の中段廻し蹴りを捌ききれずに終了。判定はジャド選手に。しかし、世界の舞台でよくがんばりました。ジャド選手はその後も好調に勝ち上がり、3位入賞を果たした。


2008年、世界大会に出場した山路要と的場彰太は、その後JKJO全日本大会で優勝し全日本チャンピオンとなり、再び世界で活躍した。その二人を支えたのが、久保田一馬と谷口敦士をはじめとする空手道MAC奈良の仲間たちだった。山路要と的場彰太、そして空手道MAC奈良で共に汗を流した仲間たちが、どんなに小さな道場でも、努力すれば夢はきっとかなうということを教えてくれた。